長崎の少年


ローマ法王がカードに印刷して配布しなさいと指示した写真です。

家人の学校教材より。
「長崎はまだ次から次へと死体を運ぶ荷車が焼き場に向かっていた・・・白い大きなマスクをつけた係員は荷車から手足をつかんで遺体を下ろすと、そのまま勢いをつけて火の中に投げ入れた。はげしく炎を上げて燃えつきる。それでお終いだ。・・・焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。」「・・・少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる炎の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。」「・・・気落ちしたかのように背が丸くなった少年はすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。」「私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。・・・しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をピンと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。・・・今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きてゆくのだろうか?」(ジョー・オダネル〈写真〉、ジェニファー・オルドリッチ〈聞き書き〉、平岡豊子〈翻訳〉『トランクの中の日本米軍カメラマンの非公式記録』より)

1945年9月、ジョー・オダネル氏は23歳で日本に上陸しました。氏の任務は広島・長崎をはじめとする戦災被害都市を撮影することでした。この長崎の少年の写真も、このときに撮影されたものです。かつての敵国であった日本の惨状に衝撃を受け、氏は帰国後日本で撮影した写真をトランクにしまい、約45年間そのトランクを開けることはありませんでした。もう一度写真と向き合う決心をした氏は1990年にアメリカで、1992年には日本で写真展を開きました。氏は戦争や原爆のもたらす悲劇を伝えるために活動を続けて(それが故に原爆を正当化する人々からは批判もされた)いましたが、2007年8月に亡くなりました。